Ayu in Taiwan

台湾で生活しながら、日々の暮らし、旅行、そして中国語や心のことなど綴ってます。

わたし、落ち込んでるんだなぁ

ある日突然「あれ?私ってこの人に避けられてるんじゃない?」と思い始める。

そう思ってみると、いろんな「避けられている」証拠が見つかる。
SNSの私の投稿にだけ、その人からの「いいね」がない、他の共通の友だちには「いいね」も付けてるし、積極的に絡んでいっている、なのにその友だちが私と一緒にいたという投稿をすると、それには「いいね」もコメントもなし・・・。
ここまでくると、他の友人に対するやけになれなれしかったり、めちゃめちゃ親身になっているコメントは、私への当てつけなのかな、まで考え始める。

これは、完全におかしい・・・私が。

その人にはそこまで考えて私に嫌がらせするほど私への確執もなければ、そこまで私のことに労力をかける必要もないだろうし、そんな気持ちも全くないだろう。
その人とは以前は親しかったけど、もうずーっと会ってないし、SNSの中の友人に対する関心度の濃淡なんて誰にでもあって、私だって誰かに対して、向こうは私に関心を寄せてくれていても、私は向こうのことを覚えてないなんてことはよくある。
誰かの投稿に気づかないなんてこともざらにあるだろうしね。

その上、私はその人ともう一度昔のようにたくさん会ったり、しゃべったりする関係を取り戻したいと思ってるわけでもない。
冷静に考えれば、いや別に冷静にならなくても、ごく自然な流れに任せたことが起こっているに過ぎないんだと思うのが普通だろう。

でも、気になってしまう。

そのことをちょくちょく考えてしまうし、時々頭から離れず、出るはずもない答えを出そうと苦しくなる。迷宮に迷い込んでいく感覚がする。
去年あったことのトラウマで、そう考える「くせ」がまだ抜けてないのかもしれない。
自分の心にとってよくないことだと知りつつ、どうしも確認したくなって、自分に誰がいいねを付けてくれているかとか、共通の友人の投稿にその人が「いいね」を付けているかとか、その人の投稿のコメント欄とか・・・を見てしまう。

病んでるなぁ、うん、これは病んでる。

でも冷静に考えることもできる。
たぶん私がその人に目を付けたのは、その人が急に何か変わった挙動をしたからではなくて、私の気持ちが落ち気味な時に、たまたまその人の投稿なりコメントなりを読んで、私が勝手にその人に注目し始めたに過ぎない。きっと誰でもよかったんだ。
そもそも私の投稿に付いている「いいね」なんて、たかが知れてて、ずっと「いいね」していない相互フォローの人なんてたくさんいる。

こんなふうに冷静に判断すれば、ちゃんとわかるし、これで解決だ!よかった、よかった!

・・・とならないのが心の問題で、頭ではちゃんと考えられても、心がなかなか納得しない。
だからこうやってブログや日記に書いて、何度も脳内から取り出して眺める。俯瞰して、それをまた脳内に入れて、少しずつ自分の主観を変容させていくしかないんだと思う。

こんな重い内容を書いておいてなんだけど、わりと幸せだなぁと思ったりして日常を送ってたりもするわけで、人間の心って不思議だ