Ayu in Taiwan

台湾で生活しながら、日々の暮らし、旅行、そして中国語や心のことなど綴ってます。

書くことについて書いてみる

11月から認知行動療法的な日記を書いていて、細々と今でも続いてる。自分で調べた知識で勝手にやっているので、これが本当に認知行動療法になっているのかは不明。専門家の方に教えてもらったり、指導してもらってるわけではないので、少し気持ちが楽になる程度の効用しかないかもしれない。

認知行動療法ドンピシャの本は読んでないんだけど、書くことの効用を説いた本は何冊か読んだ。

(ここで私の特性は、だいたいのことを見切り発車の準備不足状態で、とりあえず始めてしまうというとこだなと改めて認知しましたよ)

読んだ本の記録にもしておきたいので、ここに書いておくと
『「手で書くこと」が知性を引き出す』吉田典生
『書く習慣』いしかわゆき
『自分を変えるノート術』安田修
今のところこの3冊。

読んだ後、一番書く気になったのはいしかわゆきさんの本かなぁ。これを読んでから、このブログも始めた。

『自分を変える...』は、私はまだその段階ではないし、もしかしたらその段階にはいかないかも?もっとこれから仕事バリバリやっていきたいような人が読む本だと思った。

『手で書くこと』は、言ってることは全てごもっともなんだけど、何かそうはできない抵抗を感じてしまった。

さらに、今読んでみたいのは『書く瞑想』(古川武士)。似たような内容かもしれないけど、自分に合ってるかもしれないから読んでみたい。

私はこういうハウツー系の本は、読んでる傍から見切り発車しちゃうし、更には取捨選択やカスマタイズも勝手にしてしまう。他の人もそうなんだろうか?それとも普通はじっくり読んで、準備を整えてから、作者の言ってる通りの手順ややり方で始めるんだろうか?

自分のやり方が、いいのか悪いのか分からない。ただせめて最初くらいは作者の言ってる通りにすればいいのに、と自分でも思う。(けどできない)

共通しているのは、書くことで自分のことがわかるようになるし、いろんな見方ができるようになるし、癒されるらしいということ。

日記を書き始めて、私は自分が何が好きで何が嫌か、自分の気持ちみたいなことが本当にわかってなかったと思った。そして、たしかに癒される。この表現は少し大げさかもしれないけど、ジュクジュクで血が滲んでいた傷口が少しずつ自然に閉じていくような感じ。

だからたぶん日記を書くことは、自分に合っているんだろう。このブログも。

事実と言っても、それはあくまで自分から見た事実にすぎない。同じ事実を見ても、その見え方感じ方は人それぞれ、私の捉えた事実と他の人の捉えた事実は、たぶん同じものではない。自分の見ている事実を唯一だと思って、その事実の中に感情と共に閉じ込められていたら、辛い事実は辛い事実でしかない。でも多様な視点を自分の中に持てば、違う視点から見ればこれは何も落ち込むことではないなとか、気にすることないなと思うこともできるかもしれない。

日記はたぶんその多様な視点を持つためのトレーニングになっていると思う。何か嫌なことが起こった時、認知の癖に任せてすぐ反応して、悲しんだり怒ったり落ち込んだりするのではなく、1回自分の中から取り出してみると、感情と事実を分けることができて、頭の中だけでごちゃごちゃ考えていた時より、少しは客観的に見られる。また、なるべく自分の気持ちをちゃんと感じながら書き出していたら、自分にはこういう認知の癖があるんだなと受け止めることもできるようになった。

様々な視点を持つためには、日記というアウトプットだけじゃなくて、本を読んだり映画を見たり、人の話を聞いたり、いろんな人の考え方に触れて、それを素直に受け止めることも大切だなと自然に思えるようになった。

私は、ひとりよがりで、思い込みも激しい上に、人の話を聞かないで、自分の考えが正しい!これでいいんだ!なんて思いやすい方だから、本当にこういうインプットとアウトプットを行って、自分の認知を矯正したい!

今、ここに書いただけでも、かなり頭が整理できたなぁ。公開してるから、これを誰かに読ませてるかもと思うと、申し訳ないし、恥ずかしい気持ちになってくるけど。

でも、公開して誰かが読むかもしれない中で書くのも重要だと思ってるよ。自分の頭の中に他人を住まわせないために。

以前どこかで「孤独は自分の頭の中に他人を住まわせることで感じる」みたいな文を見たことがあるんだけど、自分の頭の中に他人を住まわせると、自分の本当の気持ちも分からなくなる気がする。